東日本大震災 東京にて

東日本大震災

2011年3月11日(金)、14時56分。

その瞬間を、私は恵比寿の会社近くの路上で迎えた。

頭上の商店街アーケードがガタガタ揺れ始め、何か落ちてきそうだったので、アーケード外に移動した。

次の瞬間、もの凄い揺れが起きた。

するとビルから多くの人達が飛び出してきて、誰かの「ガラスに気をつけろ」という声で、その人々は道路に避難し、道路は車以上の人で溢れていた。

電柱が揺れていた。

停車中の車も勝手に揺れていた。

いろんな場所から悲鳴が聞こえてきた。

すぐに家族に電話したが、繋がることは無かった。

揺れが収まり、会社に戻って固定電話からかけまくったが、固定電話からも繋がらなかった。

だが、かけ続けてやっと、祖父が電話に出た時は本当に安心した。

が、その後16時からは代官山で商談があり、相手先は商談どころでは無いのではと思ったが、連絡は取れず、とりあえず向かった。

道中、公衆電話には、ポケベル時代並の行列が出来ていた。

恵比寿駅前は電車が止まって、足止めにあった人々でごった返していた。

タクシーは一台も残っていなかった。

公園は人が溢れ、皆不安そうな表情をしていた。

バーを通ると、多くの割れたワインが外に出されていて、従業員が携帯をイジリながら、その片づけをしていた。

見たことのない多くの光景が、そこにあった。

そして商談相手の企業に着くと…

誰もいなかった。

この会社の方々も、外に避難していた。

そんな状況ということもあり「え?来たんですか?」と驚かれたが、普通に商談をした。

商談中も余震はすごかった。

だが、「いい意味で忘れるのことの出来ない商談になりますね」なんて言っていたぐらいの感覚だった。

そして商談を終え、ネットなどで情報を収集し、今回の地震による余波の大きさに気づかされた。

そのタイミングで、その他の家族とも連絡が取れたが、仲間達も気になった。

ネットは普通に使えていたので、仲間内の掲示板に〈生存確認伝言板〉を作って、安否の確認を求めた。

会社に戻ってみたが、仕事の連絡は来なかったし、しなかった。

それはメールとIP電話以外の固定電話も携帯電話も繋がらなかったからということではないと思う。

このタイミングでビジネスの連絡をするのはナンセンスだと、皆が思ったからだろう。

そして、家のPCやテレビなども心配だったし、19時前には会社を出た。

電車は止まっていたし、道路も相当な渋滞と事前に聞いていたが、車で家へと向かった。

渋滞というレベルでは無かった。

全く進まなかった。

タクシーに乗っていた人達がどんどん降りていた。

道路には、徒歩で帰路へと向かう人がはみ出し、信号を守らず渡り、それにより車も余計進むことが出来ず、車は割り込みを防ぐためにか、信号付近でも関係なく前の車との距離を縮めて止まり、曲がることが出来ない車達から、あちこちでクラクションの音が響いた。

牛丼屋さんも、ファースドフード店も、スーパーなども、地震の影響で閉店していた。

自転車屋さんでは完売の看板が掲げられていた。

そんな自転車やバイクで帰っている人達が羨ましかった。

そして、恵比寿から4時間かかり新宿に到着し、ちょうど電車が復旧したという情報も入り、もう車は諦め電車に乗って家路に着いた。

仲間内での〈生存確認伝言板〉で無事は確認出来ていたが、地元の駅に着いた瞬間、仲間達などから夕方に送られてきたメールが一斉に入ってきた。

都心は繋がりにくかったが、東京郊外の地元では、その後電話も繋がった。

多くの友達や先輩、ビジネスパートナーからも連絡をもらった。

渋滞を経て、地元に着いても若干イライラしていたが、そんな連絡に優しい気持ちになれた。

仕事の話はしなかったが、仕事相手からの連絡も本当に嬉しかった。

岩手が実家の先輩からも連絡をもらい、実家とも連絡を取れたとの話に安心した。

車の渋滞なんてことはとても小さいことであり、そんな人達が無事だったということだけで心が落ち着いた。

そこにあるモノ、その大切さを改めて感じた。

すると、夕飯を食べていなかったことを思い出したのか、お腹が空いた。

だが、起業前によくミーティング場所として使っていたファミレスも、24時間営業のはずが閉店していたし、24時間営業のスーパーも閉店していたので、結局コンビニで余り物を買って夕飯にした。

家は思ったより被害は少なく、PCもテレビも無事だった。

だが、仕事用デスクがかなり動いていて、PCのモニターがその隙間に落ちていた。

本棚は倒れ、本は散乱していたがその程度だった。

そして布団で眠りに着く時、いろんなことを考えた。

今日という日に、亡くなられた方々のこと。

今この瞬間も、どこかで待機している人々のこと。

これから復興まで、どれだけの時間がかかるのかなど。

数年前に岩手・宮城に旅行に行った。

だが映像で見るその街の姿は、私が知っている姿ではなかった。

簡単な道のりではないと思う。

そもそも被害の全容も、まだ完全に分かっていないと思う。

ある専門家は、1000年に一度の大地震と言っていた。

日本という国だけでなく、多くの支援を表明してくれた国にも助けられながら、復興へと一歩一歩進んでいくしかないだろう。

そして自分が、自分達の会社が出来ることも考えた。

すぐにその答えは出た。

個人では節電や、募金など。

会社としては、【笑顔や感動を与えたい】そんなシンプルなことだ。

まだまだ余震なども続いている。

気を抜かず備えて頂きたい。

そして最後に、亡くなれた方々へのご冥福と、被災者の方々へのエールを伝えさせて頂く。